人生スケッチ

小田全宏の人生スケッチ

私は昭和33年、滋賀県彦根にて、会社員の父と中学校教師の母の間に生まれました。

小学校4年生のとき、マルセルモイーズというフルートの神様が吹き込んでいたドップラーの「ハンガリア田園幻想曲」という曲を聴いていたく感動し、フルートを始めました。

odaphoto01L小学校6年生のときに書いた「フルートにかける夢」という作文がどういうわけか総理大臣賞を受け、将来フルーティストになろうと決意。
しかし現実は厳しく、高校1年生のときに、自分の能力才能のなさを思い知り挫折してしまいました。
そのころから「人間とは何か!」ということに俄然興味がわき、様々な哲学書、心理学書、教育書、東洋哲学書などをむさぼり読みあさったものです。

そして将来教育者になろうと思うものの、さしたる目的もなく東大法学部に入学し、学生時代はもっぱら法律よりも他の学部の授業に出ました。
将来教師になろうと思い、教職免許をとろうとしていたときに、松下幸之助に出会い、その人間学、成功哲学に感銘を受け松下政経塾に入塾。同級生からは変人扱いを受けました。

松下幸之助翁と政治家養成機関のような松下政経塾でも、人間教育を目指すと言ったら、また異端児扱いを受け、しばしば「早く選挙に出ろ!」と言われたものです。しかし人間教育への思いは止み難く27歳で人間教育の会社を設立しました。
会社を設立したものの、どのようにして仕事をしていいかわからず、開店休業が続き、始めは仕方がないから、みんなにコーヒーをご馳走しながら話を聴いてもらっていましたが、次第にポツポツと講演依頼や研修依頼が来始めたのです。そして、ようやく軌道にのったのは30歳を超えた時でした。
日々の講演はとても楽しく、人に貢献しているという意識は深い充実感をもたらしました。

しかしそこに異変が起きたのは、細川護煕氏率いる日本新党が立ち上がったときに、私にも「出馬せよ!」という声があちらこちらからよせられたのです。
私は立候補する予定は毛頭ありませんでしたが、政経塾出身者として何かしなければならないと思っていた時に、たまたまイギリスの選挙を研究する機会にめぐまれ、イギリスでは選挙のときには「候補者同士による討論会」が当たり前のように開かれているということを知り、日本にもそれを導入しようと決意しました。それがリンカーンフォーラムという組織です。

稲盛和夫名誉会長とこれによって日本では選挙の時には候補者同士が討論するというのは当たり前の光景になったのです。

(詳しくは拙著毎日新聞社刊『公開討論会の開き方』をご覧ください)

今日まで開催された回数は2700回を超えます。
しかしその後私は、公開討論会から日本の総理が1年ごとにころころと変わることに対し、非常な違和感を覚え、日本型の首相公選制の運動を開始しました。
それは丁度森内閣の時で、首相公選制は小泉旋風と一緒になって当時マスコミでは随分取り上げられました。しかし歴史の皮肉です。小泉内閣が誕生するや首相公選に対するエネルギーは収束してしまいました。
そこで私は、京セラの稲盛和夫名誉会長を最高顧問に迎え、官僚制度に替わる本格的なシンクタンクを作ろうと思い、NPO法人日本政策フロンティアを組織しました。当時はマニュフェスト全盛でしたが、シンクタンクでは各自治体のマニュフェスト作りに随分と取り組みました。
このシンクタンクを母体として新党を作ろうという議題も話の遡上に上がったこともあり私も驚きましたが、これは時期尚早ということになり日の目をみることはありませんでした。

中曽根元首相を長としてそして2003年、ある知人からのたっての願いで「富士山を世界遺産にしてほしい」という依頼を受け、NPO法人「富士山を世界遺産にする国民会議」の委員長になり、10年間取り組みました。
この富士山の世界遺産への取り組みは、人から頼まれたものであり、私自身からやろうと思ったものではありませんでしたが、非常に多くのものを学ぶ機会となりました。
2013年、カンボジアで開かれた世界遺産会議で富士山の世界遺産決定の瞬間を目の当たりにしたときには、いろいろな出来事が走馬灯のように心のなかを駆け巡り、涙を禁じえなかったのを今でも思い出します。

(詳しくは拙著『富士山はなぜ世界遺産になったのか』( PHP出版))を参照)

富士山とフルートこの富士山を世界遺産にしよう運動が一つのきっかけとなり、ひょんなことから私はまた音楽と関わっていくようになりました。
46歳の時、30年ぶりにフルートに再挑戦し、なんと2007年には銀座の十字屋で初めてコンサートを開催し、それから全国でコンサートツアーを敢行。
さらに2009年からは作曲も手がけ、2011年の2月にはいよいよ趣味が嵩じてサントリーホールで自作の交響曲「大和」を演奏するという暴挙もやってしまったのです。

サントリーホールにて指揮を振るそれ以来、東京芸術劇場、オペラシティなどで演奏会を開き、そして今では社団法人「東京オーケストラMIRAI」の理事長になってしまったのだから、人生とはなんとも不可思議なものです。

当然のことながら、この間も人間教育の仕事は続け、企業や団体で講演研修をしながら、全国の日本の偉人達の足跡を辿り、『日本人の神髄』(サンマーク出版)を上梓し、人づくりとして全国でいくつもの私塾を作りました。多賀創世塾・志学塾・全陽塾・黎明塾・北海道フロンティアカレッジなど、いずれも10年以上続いている私塾です。
このように私塾で塾生とともに学んでいくうちに、「日本人の心とは何か」という問いが私の最も強い関心事となり、それを多くの人々に伝えようと決意していったのもこの時期でした。

小学5年生から80代までまた、2004年には、脳力開発としてのアクティブ・ブレイン・プログラムを始めたところ、これが思わぬほど大きな広がりを見せ、今では40,000人以上の人たちがこれを受講し、人生を大きく変えています。
人がみるみる変わっていくことを目の当たりにするのはとても楽しいことで、私にとってはやはり人間教育が最も大きなライフワークだとあらためて感じているところです。

しかし今、私が強く感じているのは、やはり日本の未来のこと。

一人一人が素晴らしい人生を生きることはとても素晴らしいことですが、日本人が日本の本当の素晴らしさとその歴史をよく知らなければ、未来の日本がなくなってしまうのではないかと心配しています。

未来を見つめながら今日を生きる私が何かをしたところで日本がどうなるものでもないことはわかってはいますが、日本の心をできる限り多くの人に伝えていくことがこれからの私のミッションのひとつであろうと思っています。

そこで2019年一般社団法人Japan Spirit 協会を設立しました。皆が日本と世界の子どもたちのために、未来のために議論しながら、今を誠実に生きることができたら、素晴らしい世界を創っていけるのではないでしょうか。
どうか日本が世界のなかで素晴らしい国として永遠に存続していってほしいと切に切に願っています。

また、2020年から東京三田、慶應義塾大学の隣にある弘法寺の管長に就任しました。中・高生の頃から仏教を研究していたのが、めぐりめぐって、不思議なご縁で繋がりました。

お寺には母が生前に描いた仏画が何枚も展示され美術館のようになっています。弘法寺は亡くなった方々を大切にお守りするとともに、生きている私たちが、与えられたものをよりか輝かせていく創造の場でもあります。弘法寺からも、平和を祈り、世界を照らす活動をしていければと思っています。

私も還暦を超えて数年が経ちました。あの磯野家の波平じいさんが54歳なのだから、随分と生きたような気がします。しかし、まだまだやることは一杯あるような気がしています。

本当に多くの方々の支えによってここまで来たことに心から感謝するとともに、これからもひとりひとりの幸福と、日本と世界のために力を尽くして参ります。私は「右翼」でも「左翼」でもない。あえて言うなら「仲良く」です。
皆が子どもたちの未来のために仲良く議論しながら、今を誠実に生きることができたら、素晴らしい社会が、そして世界が出来上がっていくのではないかと思う今日この頃です。

どうか日本が世界のなかで素晴らしい国として永遠に存続していってほしいと切に切に願っています。

私も今年(2021年)で63歳。
あの磯野家の波平じいさんが54歳なのだから、随分と生きたような気がします。
還暦を過ぎて3年ですが、まだまだやることは一杯あるような気がしています。
これまで本当に多くの人達に支えられここまできたことに深く感謝する今日この頃です。

小田全宏