彦根のはなし

私の郷里は滋賀県の彦根です!といったって、東京の人からみたら「どこにあるんですか?」というくらいで、あまり地理的にわからないようです。

大体ひどい人になると、「滋賀県というのは、土地はあるのですか?」と、これまた非常識な質問をするのですが、はっきりいっておきますが、滋賀県の面積は日本最大の湖である琵琶湖の「5倍!」あります。

彦根はその琵琶湖の東岸にあります。新幹線の米原の隣です。関ヶ原も近いです。と、ここまで説明しないとわかってもらえないのは情けないのですが、最近ではひこにゃん(もはや最近ではないか)や、また大河ドラマの「直虎」でも注目されています。

この8月には関ヶ原というスペクタクル映画が封切られていますので、少しは知名度もあがったかな?
私は、まさにお城の中にある彦根東高校というところをでました。

今年はこの東高校の卒業生の総会で講演をしたのですが、東高校は甲子園に出場し、勝ち星をあげるという歴史的快挙をなしとげ大興奮だったのですが、それはいうまでもなく私の講演のおかげではありません。残念!

今日は90歳になる母に会い、いろいろ昭和の初期の話を聞きました。今ジャパンスピリットの本を書いていて、丁度日本が戦争に突入する時代のことを書いているのですが、母はもうそのとき、その歴史を実際に体験しているのですね。

今日聞いて驚いたことは、母の姉(私にとってはおばさん)が昭和19年に、生まれたての赤ん坊を連れて、満州にわたったという話を聞いたことです。
昭和19年といえば、終戦の前年ですから、もう日本があちこちで戦闘にまけ、中国との戦いでも厳しい局面にあったはずです。
しかしそんな中でも「満州国」は日本人にとって平和な状況であったようで、母の姉は、私の母に対して「満州は平和で物も豊かだからあなたたちも疎開しにおいで!」という手紙を送ってきたというのです。

私は、てっきりそのころは満州でも日本人は非常に迫害されていて大変な目にあっていると思っていたので、びっくりしました。
しかし、はやり案の定、戦争が終わるやいなら、ロシア兵がどっと押し入ってきて略奪の限りを尽くしていったといいます。
おばは、そんな中、命からがら赤ん坊を連れて日本に帰ってきたのですが、その当時赤ちゃんをつれていた他の女性たちは、すべて自分たちの子供を死なせてしまっていたといいます。

日本上空にはミサイルが飛んでいます。日本はこれからも平和でいるためにどうしたらよいでしょうか?
これから私たちはどんな選択をしたらよいのでしょうか?

いろいろ考えた1日でした。

写真に写っているのは、彦根のお城から続くキャッスルロードの石畳に掘られている「彦根かるた」の歌なのですが、100枚くらいあるこの石畳の字は母が書いたものです。
もし彦根にこられることがありましたら、見ていただければ、
「ははコン」の私としては、非常にうれしいです。

ついでにもう一つ、今日帰りのタクシーにのったところ、その運転手さんが「お客さん、前にもお乗せしましたよね」と言ったので、「そうでしたか」と答えたのですが、その運転手さんは「何か普通の方と違うように思うのですが、印象に残っていましたもので。何をなさっているのですか?」というので、私も適当に「ええまあ、いろいろやっています」なんて答えていたら、その運転手さん
「わたし今タクシーやっとりますが、35年ほどトレーラーを運転しておりまして、この滋賀県にきて、40年になります。その間に結婚して、6人の子供にめぐまれ、今孫が9人います。来月にはひ孫ができます。お陰様で幸せにやっとります。本当にありがたいことです!」というではないですか。

そしてびっくりしたのが年齢です。私が年齢を聞きますと「62歳になります。」と答えたのです。
私は58歳。私とほとんどかわりません。しかし人生にはいろいろな幸せの形があるなあと思いました。

「お客さんは、お子さんは何人いらっしゃるのですか?」といわれて「24歳の娘が一人います」と答えましたら、「そりゃまあ寂しいことですな。でも幸せはそれぞれですからなあ」となんだか慰めてもらったようで、変な気分でした。

というわけで、明日は久しぶりに河口湖にある「全陽倶楽部」にいって英気を養うことにしましょう。