台湾の歴史とつながりに心が震える

作日は台湾新幹線に乗り、台湾の南西に位置する「台南」に行きました。

ここは日本でいうと「京都」のような都市で、古い趣がある場所です。でもここでまさに日本の魂ともいうべき「烏山島ダム」を10年以上かけて作り上げた「八田與一」の足跡を辿りにいきました。

今から2年ほどまえ「KANO」という映画を見ましたが、この映画は台湾の「嘉義農林高校(かぎのうりんこうこう)」が、はるばる日本まで来て、甲子園で大活躍するという実話なのですが、その頃この台南の地台湾で巨大なダムを作ったのが、八田與一なのです。
多分みなさんは八田與一の名前を知らないと思いますが、この八田與一のことを台湾の人はみんな知っています。

彼は長年の苦難の中、このダムを完成させるのですが、それまで台南の地は冬の季節には全く雨が降らず、一回しかコメがとれません。
しかもそのころの台湾のコメは病気に弱く、人々は困っていました。そこでなんとかしようと立ち上がったのが、八田與一です。

この台南の地ではなんと16000キロに及ぶ用水路が張り巡らされ、このダムができたことによってなんと一年で三回コメがとれるようになりました。
しかしこの10年の建設の間、何人もの人が事故でなくなり八田與一は何度も挫折しかけました。しかし台湾の人たちがみんな「八田さん、ここでくじけてはダメだ。台湾をなんとか救ってほしい」と懇願され、八田與一はこのダムを完成させたのです。このことによって台湾の人たちは飢えへの恐怖から解放されたのです。
その魂を、台湾の人は「日本精神(リップンチェンチン)」と呼んだのです。

みなさんエリートとは何かわかりますか?
それは金持ちでも、それから高学歴でもなく「『自分の命を公のために使おう!』ということを決意した人だ」といわれるのですが、まさに八田與一はその意味では台湾の大エリートだったのです。
この壮大な于山島ダムを見て、その当時の彼らの魂に触れたような気がしました。そこには八田與一の銅像があるのですが、それは八田與一が座ってダムを見つめている姿です。

八田與一は自分の銅像が作られることになったときにそれを何度も断ったのですが、「どうしても」といわれ、そこで「自分が上から人を見下ろしている姿は絶対嫌だ」といって、座っている銅像になったのです。

八田與一はこのダムを完成したあと、フィリピンで新しい灌漑設備を作るための新プロジェクトを推進するために、船にのってフィリピンに向かう途中にアメリカの魚雷攻撃によって亡くなってしまいました。
しかし彼の志と台湾への愛情は今もなお深く台湾の人の心に残っているのです。

この後、もう一つ「飛虎将軍(ひこしょうぐん)廟」というところにいきました。ここはどんな場所かというと、実は戦争中の日本の軍人が神になり祀られているのです。
なぜ日本の軍人が神になったのか?
それは終戦の前年アメリカが台湾をせめてきたときに、日本の零戦と激闘になりました。
その零戦の一機にのっていたのが「杉浦」というパイロットでした。

彼は奮闘しアメリカの飛行機を何機も撃墜するのですが、最後は撃たれ火を吹いて墜落してしまいます。
しかし自分の飛行機が墜落して行く先をみたら、ちょうど村があります。彼は墜落していくとき自分がパラシュートで脱出したら、自分の命が助かることはわかっていたのですが、そうしたら零戦が村を直撃し何十人もの人が死に、また火災によって村が消失してしまいます。
そう思った杉浦は必死になって機首をあげ左に旋回し、村への激突を避けたのです。

ただそれだけのことですが、それからしばらくたって村の池のまわりで白い帽子を被り白い服を着た人が夜になるとフラーときて消えて行くというのを何人もの人が見たのです。
最初村人たちは、泥棒かと思っていたのですが、村人の何人もの夢の中にこの「杉浦」という軍人が現れ、かつて自分がこの村に墜落しそうになった話をしたのです。

それが複数の人の夢にあらわれたものですから、「これは彼の霊を慰めなければならない」となって小さな祠が作られたのです。そうすると村がだんだんと豊かになっていきました。人々はこのことを「杉浦」という軍人の神徳だと思い、大きな廟をつくり信仰しているのです。
そしてその「廟」は「飛虎将軍廟」といわれ地域の守り神になっているのです。
いかがでしょうか?

台湾にはこういう戦中の日本人が神として崇められている「神社」が10以上あります。
これは日本が台湾に対して「信仰しろ!」と強制したものではなく、そこに生きた日本人の生き様のすばらしさに共感したからに他なりません。

夜は「黄(こう)さん」という方にお会いしました。彼は今84歳ですが、小学校のときに終戦を迎えます。
矍鑠としたおじいちゃんでしたが、「祖国がなくなるというのはこんなに悲しいことはありません」と語っていました。

 

つまり台湾統治時代というのはまさに日本が台湾の人たちを虐げていた時代ではなく、彼らにとっての祖国が日本であったのです。
当時の時代を生きた人たちにとって、日本人が台湾人をいじめたり差別したという話は全く聞きません。

そして、日本人の台湾への情熱というものを強く感じているのです。
黄さんが会食の最後みんなの前で「君が代」を「海ゆかば」と朗々とし声で歌った時には、メンバーのみんなは感動し何人も涙を流しました。

今回は台湾と中国の複雑な歴史について語る時間はありませんが、一ついえることは、日本人は台湾のことをもっともっと知らねばならないということです。
もちろん台北や九份にいってグルメツアーを堪能するのもいいでしょう。でももっともっと台湾と日本の絆を知らねばならないと思います。
今回の旅は全くもって、今までの旅とは全く異質なまさに「台湾探求ツアー」の様相を呈しているのです。

ただ、今回の旅の大問題は、爆裂講義で台湾の歴史を語る片倉さんが食べ物の専門家でもあり、行く先々でメチャクチャおいしいものを「これでもかこれでもか」と出してこられるので、「いかん」と思いつつもついつい全部食べてしまい、私の体はここ最近ではマックス体重になりつつあるということです。
体重計に乗るのが恐ろしい今日この頃であります。

というわけでみなさんもお元気で!
ごきげんよう!